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コラム

Column

甲子園~高校野球

皆さんこんにちは。
まだまだ残暑の厳しい時期ですので熱中症にはお気を付けください。

さて今回は先月行われた毎年恒例の熱戦
全国高等学校野球選手権大会を少し見ていこうと思います。

夏の甲子園は1915年、春の甲子園は1924年に始まり、夏の大会は今年2022年に第104回大会を迎えています。
かなり歴史がある大会になりますね。

■春の選抜高校野球の始まり
第1回大会が1924年に愛知県名古屋市の山本球場で開催されました。
春、夏を通じて、高校野球の全国大会が関西以外で行われたのはこの大会だけみたいです。

第1回大会の大会名は選抜中等学校野球大会です。
大会出場が8校でかなり現在とは数に開きがありますね。

■夏の甲子園の始まり
第1回大会の開催年1915年に大阪府の豊中グラウンドで開催されました。
甲子園球場はまだなかったためです。

第1回大会の大会名は全国中等学校優勝野球大会です。
戦前の時代で学制が異なっていたため、春の選抜高校野球と同様に大会名は現在とは異なっています。
出場校数は予選参加73校、本大会出場10校

先に始まった夏の甲子園は今年第104回大会を迎えており、高校野球の歴史は100年を越えています。
春の選抜高校野球大会は遅れてスタートした為、今年で第94回大会です。

2020年の春は令和時代初の選抜高校野球大会が開催される予定でしたが、
新型コロナウイルスの影響により春の大会では史上初の大会中止となっています。

夏の選手権大会とは別の選出基準で出場校を集う大会として創設されたのが春の選抜大会です。
各都道府県を勝ち抜いたチームが出場する夏の大会とは異なり、
春の大会は前年秋の大会の成績をもとに日本高校野球連盟が出場校を選抜します。

夏の大会と同様に甲子園球場で開催されるようになったのは、1925年の第2回大会から。1942年から1946年までは太平洋戦争の影響で大会は中断されています。戦後、学制改革によって1948年の第20回大会から、大会名が現在の選抜高校野球大会となっています。
選抜高校野球出場枠の歴史
都道府県大会を勝ち抜いたチームが出場する夏の大会とは違い、春の大会の歴史は出場校数もさまざまに変化してきました。
第1回大会はわずか8校で始まり、第2回大会で12校、第3回大会で16校と少しずつ増えています。

現在は32校がベースですが、10回ごとの区切りの大会では記念大会として出場校を増やします。そのため、1998年の第70回大会、2008年の第80回大会、2018年の第90回大会では史上最多の36校が出場しています。
選抜高校野球21世紀枠の歴史
選抜高校野球の出場校は前年秋の大会を重要な参考資料として選考されますが、大会結果以外の要素も考慮される出場枠があります。その代表的なものが21世紀枠です。

21世紀枠の歴史は、その名の通りに21世紀の最初の大会であった2001年の第73回大会から始まりまっています。文武両道の学校や部員不足や豪雪地帯などの困難を克服した学校、野球以外の活動で地域の模範となる活動をしている学校などが選ばれます。

ただし、21世紀枠の選出も最低限の実力は必要で、秋の大会の都道府県大会ベスト8以上が条件となっています。

選抜高校野球の大会歌
選抜高校野球の大会歌は現在、大会歌として3代目の「今ありて」が採用されています。
1993年の第65回大会から使用されており、作詞が阿久悠氏、作曲が谷村新司氏です。

初代の大会歌は1931年の第8回大会で使用された「蒼空高き甲子園」でしたが、歌詞に英語が含まれていたために1年で廃止。2代目の大会歌は1934年の第11回大会から1992年の第64回大会まで使用された「陽は舞いおどる甲子園」です。
夏の甲子園大会の歴史

夏の選手権大会は豊中球場で第1回大会が行われ、第3回大会から第9回大会までは兵庫県の鳴尾球場が会場です。甲子園球場で行われるようになったのは1924年の第10回大会から。なお、甲子園の語源は球場が完成した年が十干十二支の甲子(きのえね)の年だったからです。

大会名は1948年の第30回大会から現在の全国高校野球選手権大会に変更。第4回大会では米騒動、1941年から1945年までは太平洋戦争で大会中止となりましたが、2019年に記念すべき第100回大会を迎えています。
夏の甲子園出場校数の歴史
夏の甲子園も当初は全都道府県の代表校が出場する大会ではありませんでした。第1回大会は出場校10校でスタートしましたが、徐々に増えていきます。初めて全都道府県の代表が出場したのが1958年の第40回大会。毎年全都道府県の代表校が出場するようになったのは第60回大会からで、東京と北海道からは2校が出場するため、現在の出場校は49校です。

甲子園大会では、敗れたチームがグラウンドの土を持ち帰る伝統があります。特に夏の大会は3年生にとっては最後の大会となるため、多くの選手が記念に土を持って帰ります。甲子園の歴史上、最初に土を持ち帰った球児については諸説ありますが、熊本工高(熊本)の川上哲治か小倉高(福岡)の福嶋一雄が有力とされています。
夏の甲子園の大会歌
夏の甲子園の大会歌は栄冠は君に輝くです。学制改革によって大会名が全国高校野球選手権大会となった第30回大会から採用されています。全国から募集して選ばれた歌詞に、作曲家の古関裕而が曲をつけたものです。また、第12回大会から第29回大会までは「全国中等学校優勝野球大会の歌」が大会歌として使用されています。
高校野球歴史に残る試合とは?
高校野球歴史に残る試合
100年の歴史を誇る高校野球では、これまでに多くの試合が行われています。記念すべき最初の試合は、1915年8月18日に行われた夏の第1回大会の開幕試合。

鳥取中(鳥取)対広島中(広島)の一戦で、結果は鳥取中が14対7で勝利しています。
試合前には大会を主催する朝日新聞社の村山龍平社長が始球式を行っています。

高校野球歴史に残る名勝負

高校野球の歴史に残る主な名勝負は、以下のような試合があります。

・1969年夏の決勝…松山商0対0三沢
 延長18回引き分け、再試合は松山商が4対2で勝利

・1979年夏の3回戦…箕島4対3星稜
 延長18回、サヨナラホームラン

・1998年夏の準々決勝…横浜9対7PL学園
 延長17回の死闘

・2006年夏の決勝…早稲田実1対1駒大苫小牧
 延長15回引き分け、再試合は早稲田実が4対3で勝利

ぜひ動画などで検索してみてください。

高校野球の歴史的大敗

甲子園大会にはコールドゲームがないため、大差がつく試合もあります。
歴史上で最も大差がついた試合は、1937年春の1回戦。滝川中(兵庫)対浦和中(埼玉)の試合で、27対0というスコアで滝川中が勝利しています。夏の大会では1985年の2回戦で、PL学園(大阪)対東海大山形(山形)の一戦。結果はPL学園が29対7と、22点差で勝っています。

高校野球の歴史に残るチーム

甲子園の最多優勝校

【春夏通算の最多優勝校】
中京大中京(優勝11回)

【春の最多優勝校】
中京大中京、東邦(優勝4回)

【夏の最多優勝校】
中京大中京(優勝7回)

春夏ともに最多の優勝回数を誇るのが愛知の中京大中京。戦前から現在にいたるまで常に強豪であり続けるチームです。
春は同じ愛知県の東邦も最多タイの4回の優勝経験があります。
甲子園の最多出場校

【春夏通算の最多出場校】
龍谷大平安(出場75回)

【春の最多出場校】
龍谷大平安(出場41回)

【夏の最多出場校】
北海(出場39回)

春夏通算で最も多く甲子園大会に出場しているのは、京都の龍谷大平安で計75回。春が41回と最多で、
夏も3番目に多い34回の出場経験があります。夏の最多は北海道の北海で38回。
甲子園の最多勝利校
【春夏通算の最多勝利校】
中京大中京(136勝48敗)

【春の最多勝利校】
中京大中京(58勝27敗)

【夏の最多勝利校】
中京大中京(78勝21敗)

甲子園での勝利数は、優勝回数でも最多の中京大中京が春、夏、春夏通算と、すべてでトップとなっています。
春夏通算の勝利数で2位につけるのは、龍谷大平安で103勝です。

高校野球の歴史に残る野手の個人記録

【個人通算最多本塁打記録】
春/清原和博(PL学園) 4本
夏/清原和博(PL学園) 9本

【個人大会最多安打記録】
春/室岡尚人(観音寺中央)、山崎福也(日大三)、我如古盛次(興南) 13本
夏/水口栄二(松山商) 19本

高校野球の歴史に残る投手記録

【甲子園の個人通算最多勝利記録】
春/楠本保(明石中)、吉田正男(中京商) 9勝
夏/吉田正男(中京商)、桑田真澄(PL学園) 14勝

【甲子園の個人大会最多奪三振記録】
春/江川卓(作新学院) 60奪三振
夏/板東英二(徳島商) 83奪三振

高校野球監督記録
甲子園の監督通算勝利数の上位5名。

【監督の甲子園通算勝利数ランキング】
1位/高嶋仁(智弁学園、智弁和歌山) 68勝35敗(優勝3回)

2位/西谷浩一(大阪桐蔭) 61勝11敗(優勝8回)

3位/中村順二(PL学園) 58勝10敗(優勝6回)

4位/馬淵史郎(明徳義塾) 54勝34敗(優勝1回)

5位/渡辺元智(横浜) 51勝22敗(優勝5回)

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